空のごみ2009年02月16日 05時48分14秒

旧ソ連の衛星とアメリカの衛星が、
衛星起動上で衝突したのは、
ドイツの新聞にも掲載れていた。

220~250くらいの衛星が最低でも軌道上に
存在しているそうだ。

ざっと計算してみると
静止軌道の高さは地上から
35825km(エクセルで計算した)、
その軌道の長さ(円周)は
265693kmというピンと来ない
距離だ。
仮に軌道上に300個衛星があったとして
理想的に均等配置されたとして、
一個と一個の感覚は884kmだ。
まあ均等配置ではないにしても
そんなにぶつからないと考えるのが
一般的ですが、衝突したのですね。

衝突すると破片が軌道上にばら撒かれて
これまた他の衛星に影響を与えるかも
しれないようですね。

宇宙は無限のようで、静止軌道は有限。
昨今の衛星の寿命は延ばされているようですが
使用不能になる前に打ち上げを繰り返していると
30年後、50年後に空の交通渋滞が
起こりそうですね。

そんなことを考えながら、今日は
幸村誠の「プラネテス」を思い出した。
↑私はこういう作品好きですね。

Ausbildung(アウスビルドゥング)2009年02月16日 06時49分10秒

ドイツ語でいうところの、修行・修業・啓発。

我々は小さい頃から試験を受け続けて今に
至っている、というのはある意味事実だ。

授業中の漢字や算数のテストや、
中間、期末試験、人によっては中学受験、
高校受験、人によっては短大、大学、
修士や博士、そして就職試験、または
司法試験などの専門資格をとった
同期もいた。入社してからは、社内の
昇級試験が、続く。。。。

試験前の準備は、日々夜更かしすることも普通で
(余裕の人々は夜更かしなどしないだろうけど)
試験の結果はもちろんだが、その試験に取り組む
気持ちがあるかどうかを判定されているような
感もあるが、実際は結果は結果であろう。

決して試験の内容がすべての個人の能力や
業務処理能力を判定できるものではないが、

ある一側面での判定にはなる。
無意味に夜更かしして中身の少ない結果を出しても、
夜更かしせずに、中身のある結果をだしても、
同じように判定されることはない、と個人的には
思っている。

同じ中身ある結果だった場合は、
「プロセスや姿勢」や「将来性」というのは
ペーパー試験ではわかりにくいので、
そのために面接などが必要だろう。

そして試験はあくまでもその時点の評価だ。
(プロの人事は将来性を見抜ける
のかもしれないが)

やはり人間は、今何を成しているか、
今後何を成していくかということではないか。

そういう意味で、試験はあくまでも通過点。
日々の地道な勉強(業務含む)や、色々な
ものに興味を持ち多方面から吸収することが
自己を向上・啓発するいい方法ではないかな。
(試験用に瞬間的に勉強するよりは、、)

企業という狭い世界の中でも、
世間一般の長い人生の中でも、そのあたりの
考えは共通ではないだろうか。

能でいう男時女時(おどき・めどき)のような
攻めのときと待ちのときがあるのは
世の常なので動かない待ちのときはあるが、
ヴィジョンを持って確実に進めているか、
ということだろうか。

別に最近試験を受けたとかいうネタではない。
(私は試験キライなので)

日々のAusbildung は続く。。。。

いつもと違う日曜の過ごし方2009年02月16日 07時37分22秒

日曜にお店が完全にしまってしまう欧州では、
(一部除く)寒い日曜日はすることが限られる。

今日は天気もいいのだが、
娘も病みあがりということもあり、
激しい活動はむろんだめだが、
家にこもるのも何なので、

フランクフルト空港まで遊びにいった。
(我々一家は暇な日曜に時々空港遊びをする)

子供の遊び場もあるし、ブティックもある
日曜も開いている、レストランもある。
(電化製品屋さんもある!)
もちろん室内なので、寒くない。

アウトバーンで最後の最後、空港に
入る直前で工事通行止めで、大回り
させられたが15分遅れくらいで到着。

これが出国だったら相当焦っただろう、
と思うくらい道案内が不親切。

ともかく、到着し、娘がうどんを食べたい
というので、親も一緒に日本食を食べた。
ブラブラと店を見て周り、娘も遊び場で
遊んで、帰りの車では皆ぐっすり眠っていた。
(除く:私)

往復300kmでしたが、もう長いと感じないなぁ。
ほんと、走ってご飯食べて、
ウインドウショッピングして、遊んで、
走って帰ってきたという、楽ちんお出かけという感じ。

写真はターミナル2からターミナル1への連絡電車の
車窓から。。。

Ausbildung(その2)2009年02月16日 08時14分20秒

ドイツ語でいうところの修行・修業・啓発。

翻って、自分の中身の向上心・啓発心
という名のエンジンを考えてみると
どうだろう。

根底にはある種の劣等感に似た、
それでいてマイナス思考には行かない、
自分はちょっと頑張りすぎるくらいで丁度良い、
(↑すぐ近道するし、流したりするし)
自分は多少へこむくらいの扱いが丁度良い、
(↑すぐ有頂天になったり自惚れたりするし)
という設定が多くを占める。

小学校の面談で母が、
「あなたの息子さんは、はっきり言って甘い!」
といわれたくらい勉強せず。

高校受験時も内申書はギリギリ、
合格は、当日どれくらい点が取れるかどうか、ですねぇ、
という分析が先生からも学力テストの判定からも
出され続けて半年以上。

大学の時も、センター試験模試も結局目標点数には
到達せず、本番はラッキーにも到達したので、
2次に進めたが。

大学院のときも同様だ。出来た気がしない。
もちろん順番などわからないが、
かろうじて受かっている?という印象ばかりだ。

会社で数年置きにある試験などもそうだ。
もちろん会社の試験で人間性など人格まで
判定はできないが、
とくに文章力・構成力・表現力や能力が他人より
秀でているとは、一切感じず、逆に、
他の人々のを聞いたり、見たりして
「へぇ~すごいなぁ、やっぱ俺には才能ないねぇ」
と正直思ったりする。

ギリギリぶら下がった感など
そういうことから、ある種の劣等感に似たものが
でてくるのか。

そう感じながらも悲観するという意識はなく
目標にして、いつか到達しようと思っている。
自分にはまだまだ足りないものがたくさんある
と思っているからでもあるかな。

かといって、自分の能力以上のことをしようと
しても無理なので、当面は自分の能力を最大から
ちょっと削ったくらいを使って行こうと考えている。
過密で業務しても後半、気が抜けてることもあるので
一日の中でも1週間の中でも短期集中を
繰り返しながら、ちょっと頑張りすぎるくらいが
私の性格的にはちょうどよい。
(これで人並みの成果か)

そしてじょじょに能力の最大値を上げる努力を
していけばいい。Ausbildung だ。

そして有頂天になる性格なので、「褒め」は
今ひとつか。雑草的に踏み潰すくらいが丁度よい。
へこみやすいので直後はへこむが、
そのうち自然に復活していくので、不思議だ。
私が雑草魂を持ってるというわけではない。
(案件によっては踏み潰されて復活してこないこと
もあるので、準雑草魂か)

私の性格を読みきった神様が私に、
「おまえは毎回毎回ギリギリで受かっている
(受からせている)ので、受かってから
頑張らねばアカンぞよ」
と、言ってる声が聞こえる。

この神の声が、自惚れ・有頂天の私を
我に帰させる一つのスイッチであることは
間違いない。
そしてこれが、初心を思い出すことにつながる。

さて、明日からまた初心を思い出して
頑張るとしますか。

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写真はフランクフルト空港のターミナル2の遊び場。