午後からフランクフルト空港2009年04月07日 04時49分07秒

今日は、午後からプチおヒマを会社から
いただきフランクフルト空港まで家人を
迎えにいきました。

天気もよく快適なドライブをしながら、
平日の普段みなれない風景、人々の
動きなどを物珍しげに眺めた。

平日に半日とは言え休みをとったのは
本当に久しぶりだ。風邪の時は、
幸か不幸か休日だったし。

1年以上ぶりだ。でも欧州は長期休みが
あるので「休んでいない感」はない。

不思議なものである。

今回も iPod touch で入力したが、
だいぶ慣れてきた。

A未満 B以上?2009年04月07日 07時20分44秒

1870コイン
さて、人間生活していると、ちょっとづつ物が増えていくものだ。
ウケけ狙いでもポリシーを持ちながらやっている 趣味はさておき
こだわりの道具年代ものの機械式計算機など
生活以外の余計なモノもちょっとづつたまっていくものだ。

今回のモノは、実際の価値はともかく、自分で
けっこう気に入っているモノだ。

古銭なんていうものは、使えないのと、出ている枚数が
多いので、仮に百数十年たっていても価値は微妙なものである。
ましてや半分にカットされたキーホルダー古銭なんていうものは
価値はないに等しい。
(本当に価値があるならカットなどしないでそのまま保存・売買だ)
ということで二束三文にもならないものだが、私はコレクターでは
ないし、価値というものは欲しい人がいるかいないか?で決まる
ものと考えているので、実際の価値はあまり気にならない。

これは、私がグラナダのイスラム市場の古物商で購入したものだ。
今までなら迷わず、そんな古物商などには入らず、
胡散臭い露店商でB級キーホルダーを購入していたが、
その時はなんとなく、古物商でキーホルダーを
買いたい気分だった。
かなりの時間放置されていたようなそいつは、鈍く光っていた。
スペインの古いコインのようだったが、詳細は不明だった。
(後で調べたら1870年のスペインのコインだった)
とにかく、それに価値があるなしにかかわらず、半分という
形状がなんとも楽しそうだった。
(売り手にすれば1枚を半分に割って値段をつけるので
効率的だ)
邪推はともかく、、、購入し、今も手元にある。

今もこの半分のコインをながめながら、こいつの半分は
どこにあるのかなぁ、とか、また縁あってグラナダを訪れる
ための勘合符かもなぁ、とか勝手に想像し、楽しんでいる。
モノの価値というのは、ひとぞれぞれですなぁ。

靴A か 靴Bか2009年04月07日 08時06分13秒

さて、本日、出かける直前に我が娘がダダをこねて泣き出した。

履きなさいといわれた靴Aがイヤで、靴Bにしたいとのこと。

靴Bは汚れていて、今回は靴Bを選択する余地はない。

それでやむなく靴Aを強制的に履かせて、出かけたのだが、

全身全霊を込めて、大粒の涙をためて、泣く。(&叫ぶ)

ほどなくして泣き止んで、ケロっと会話が弾む。

親としては様々な考えが脳裏を巡るが、(ダダをこねるほどの
ことか、、、とか、、、)子はそれほどでもなさそうだ。

こうして子供は自分では気づかずともストレスを発散?(開放?)
する方法、もしくは心のバランスの取り方を体現している
のではないかな。

振り返ると、大人は子供のように泣くことはできない。
社会生活では、怒りを抑え、泣きたいのをこらえ、
気を遣いながら、喜びや楽しさも謙遜して控えめに表現する。

でも時には、大人も魂の開放が必要だ。
喜怒哀楽に身をまかせるのもいいだろう。

たまには本気で怒り、おおいに泣くといいだろう。
それを許容してくれる家族や仲間がいるとさらによい。

心の開放は、何も楽しさや喜びだけから来るものではない。

そう思いませんか?